・・・・・・・・・・・・・・・・・判決速報・・・・・・・・・・・・・・・・・
明細書の記載不備を理由になされた特許取消決定に対する
取消請求が棄却された事例
2002年8月5日
門脇俊雄
一対の基板間に配置したスペーサーの伸縮率の限界値を特定した液晶表示素子に係る発明について、特許後の異議申し立てにより、特許を取り消すべき旨の異議の決定がなされた。原告(原特許権者)は、特許取消決定を不服として取消請求を提訴した。
東京高裁は、「本件明細書は、その発明の詳細な説明中に、当業者が容易に実施することができる程度に発明の構成及び効果を記載したものということができないから、本件特許が特許法36条第3項(平成2年改正前)の規定に違反してなされたものであるとした決定の認定、判断に誤りはなく、その他、決定を取り消すべき瑕疵は見当たらない。」として、原告の請求を棄却した。
【事件表示】 平成12年(行ケ)第384号 特許取消決定取消請求事件
【裁判所】 東京高等裁判所 第18民事部
【判決】 平成14年7月2日 請求棄却
【特許取消に係る本件発明の要旨】
【請求項1】
一対の基板間に、液晶とスペーサーを有する液晶素子において、前記スペーサーは接着力と、伸縮率の限界値を有し、前記伸縮率の限界値が10%〜35%の範囲から選択されたものを、前記スペーサーとして用いることを特徴とする液晶素子。
【異議決定の概要】
合議体は、以下の決定理由1、決定理由2を示し、「本件発明の特許は、その明細書の発明の詳細な説明に、当業者が発明を実施することができる程度に、発明の構成が記載されたものとは認められない」から「本件発明の特許は、特許法第36条第3項(注:平成2年改正前)の規定に違反してされたものであり、拒絶の査定をしなければならない特許出願に対してされたものと認める」として特許を取り消すべき旨の決定をした。
(1)決定理由1
本件特許明細書の発明の詳細な説明には、「接着力を有し、5%以下の伸縮性を有するエポキシ系のスペーサーが開発され、セルの上下基板を接着してセル厚の均一に保った方法が試みられた。」(特許公報第1頁第2欄最終行〜第2頁第3欄第3行)、「本発明は、接着力と適当な伸縮性とをともに有するスペーサーのみを、あるいは接着力を有さないスペーサーと同時に使用することにより、セル厚の均一性と、セルが液晶の収縮、膨張に追随できる」(特許公報第2頁第4欄第1〜5行)、および第1表で、スペーサーの伸縮率とセル厚の均一性及び液晶の存在しない部分の有無との関係を示す記載があるのみで、出願当時既に周知のいかなるスペーサーを用いると接着力を有し、伸縮率の限界値が10%〜35%とすることができるのか、具体例が何も記載されていない。そして、出願当時、接着力を有し、伸縮率の限界値が10%〜35%のスペーサーが当業者に自明又は周知であると認めるに足る証拠はない。
(2)決定理由2
特許権者は、本件特許発明は、スペーサーそのものを作製したのではなく、周知のスペーサーの中から、個々のスペーサーの性質および数十〜数百のスペーサーの分布状態を考慮して、スペーサーの伸縮率について調べた結果、伸縮率の限界値が10%ないし35%の範囲から選択されたスペーサーが用いられた場合、セル厚の均一性および液晶の存在しない部分がないという効果を同時に達成することができることを発見したものである旨主張しているが、その様な記載は明細書にはなく、また当業者において明細書をそのように解釈することが自明であるとは認められない。さらに、特許権者は、本件発明は明細書の記載および周知技術から当業者が容易に実施できる旨主張しているにもかかわらず、周知のスペーサーの中から、個々のスペーサーの性質および数十〜数百のスペーサーの分布状態を考慮して、伸縮率の限界値が10%ないし35%の範囲から選択されたスペーサーの具体的な実施例を一つも示していない。
【原告の主張】
原告は、特許異議決定における決定理由(上記決定理由1、決定理由2)に対し概略次の主張をした。
(1)決定理由1に対する原告の主張
原告は決定理由1に対して、
「要は、(@)本件発明のスペーサーはどのような材質からなるもので、(A)どのようにして第1表に記載した伸縮率を求め、(B)どのように伸縮率の限界値を特定したのか不明である、というものであると思われる。
上記(@)については、本件発明は、本件明細書にスペーサーの材料、物性等に関する記述がないことからも明らかであるように、スペーサーの材料、物性に関するものではなく、スペーサーとして本件特許出願前周知の材質からなるものを用いるものである。
上記(A)については、そのスペーサー特性(例えば、スペーサーの材質がゴムである場合にはゴムの伸縮性)あるいはスペーサーの分布状態、すなわち、スペーサーの数(分布密度でも同じ)を変更してそれぞれの伸縮率を求めることができるものである。
上記(B)については、求めたそれぞれの伸縮率から伸縮率の限界値である液晶セルのセル厚が不均一にならない値及び液晶セル内に液晶が存在しなくならない値である10%〜35%の伸縮率の範囲を特定することができるものである。スペーサーの材質、伸縮率を求める手法並びに伸縮率の限界値の特定の仕方は、本件特許公報に示される本件明細書の記載事項、具体例としての第1表、第2表、本件特許出願前の技術常識、更には従来周知の技術をも合わせ読めば、本件明細書に記載されているものである。」と主張した。
(2)決定理由2に対する原告の主張
原告は決定理由2に対して、
「上記(A)の『第1表に記載した伸縮率の求め方』がもともと本件明細書に明示されていれば記載不備はないが、その旨の記載がないため不明であるとするものであると思われるが、上に記載したように複数個の伸縮率は簡単に求めることができるとともに、スペーサーの伸縮特性あるいはスペーサーの分布状態を変更して伸縮率を求める手法は、本件特許出願前の技術常識、更には従来周知の技術をも合わせ読めば実質的に本件明細書に記載されていたものである。」と主張した。
【被告の主張】
取消決定の正当性を主張した。
【裁判所の判断】
裁判所は概略次の(1)〜(4)の判断を示し、特許取消決定に対する取消請求を棄却した。
(1)本件明細書の記載について
(1−A)本件明細書にスペーサーの材料、物性に関する記載がないこと、及びスペーサーについてどのような形状でどのような材質からなるものかについても記載がないことは、原告の自認するところである。
そうすると、「出願当時既に周知のいかなるスペーサーを用いると接着力を有し、伸縮率の限界値が10%〜35%とすることができるのか、具体例が何も記載されていない。」(決定書4頁5行〜7行)との決定の認定に誤りは認められない。
(1−B)原告は、本件発明は、「個々のスペーサーの性質及び数十〜数百のスペーサーの分布状態を考慮して、スペーサーの伸縮率について調べた結果、伸縮率の限界値が10%ないし35%の範囲から選択されたスペーサーが用いられた場合、セル厚の均一性及び液晶の存在しない部分がないという効果を同時に達成することができることを発見した」ものである旨主張するが、本件明細書の発明の詳細な説明中の「発明の構成」の項には、原告の主張する趣旨の記載はないことが認められ、「従来の技術」及び「発明の効果」のいずれの項にも同旨の記載は見いだすことができない。また、原告の主張するように本件明細書を解釈することが当業者に自明であるとする事情も認められない。したがって、原告の主張する上記事項が本件明細書に実質的に記載されていたということはできない。
そうすると、決定が、原告の主張する上記事項について、「そのような記載は明細書にはなく、また当業者において明細書をそのように解釈することが自明であるとは認められない。」(決定書4頁17、18行)と認定したことにも誤りは認められない。
(2)周知技術について
原告は、本件発明は、周知の材質からなるスペーサーを用いるものであり、接着力を有するスペーサーや伸縮性を有するスペーサーは、周知であると主張する。
しかし、原告が周知のスペーサーを示すものとして引用する証拠を検討すると、「接着力を有し、伸縮率の限界値が10%〜35%のスペーサー」については何ら示されていないことが認められる。
そうすると、決定が、「そして、出願当時、接着力を有し、伸縮率の限界値が10%〜35%のスペーサーが当業者に自明又は周知であると認めるに足る証拠はない。」(決定書4頁7行〜9行)と認定したことに誤りはない。
(3)「スペーサーの伸縮率」及び「伸縮率の限界値」について
「スペーサーの伸縮率」及び「伸縮率の限界値」について、温度、圧力等に起因した力を特定することができなければ伸縮率が定まらないことは、原告の自認するところである。また、本件明細書に、第1表の10個の伸縮率について、これをどのように求めたかの具体的な手法についての明示がないことについても争いはない。
第1表の伸縮率の数値は、この数値を定めるために必要な温度、圧力等の条件を特定することなしに示されたものであり、それらが特定されなければ、数値自体に意味がないといわざるを得ない。
(4)本件明細書には、「接着力と、伸縮率の限界値を有し、前記伸縮率の限界値が10%〜35%の範囲」にあるスペーサーの具体例が一例も示されていない上、周知技術を考慮しても、周知のいかなるスペーサーが上記要件を満たすものに該当するのかが本件明細書の記載からは不明であるといわざるを得ない。そして、本件明細書に上記要件を満たすスペーサーの具体例が示されていないという事情の下では、本件発明を実施しようとする当業者は、接着力を有する個々のスペーサーについて、その「伸縮率の限界値」を知り、その数値が「10%〜35%」の範囲にあるものの中からスペーサーを選択する必要があるところ、本件明細書には伸縮率の数値を定める前提となる温度、圧力等の条件が特定されておらず、スペーサーの「伸縮率の限界値」を求める方法が不明なのであるから、結局、「接着力を有し、伸縮率の限界値が10%〜35%」の範囲にあるスペーサーを得て、本件発明を実施することは、当業者の容易になし得ることではないというべきである。
してみると、本件特許が特許法36条3項(平成2年改正前)に違反してなされたものであるとした決定の判断は、正当であり、何ら誤りは認められない。
【コメント】
判示事項のうち、「本件明細書には、『接着力と、伸縮率の限界値を有し、前記伸縮率の限界値が10%〜35%の範囲』にあるスペーサーの具体例が一例も示されていない」及び「周知技術を考慮しても、周知のいかなるスペーサーが上記要件を満たすものに該当するのかが本件明細書の記載からは不明であるといわざるを得ない」との指摘から、明細書の記載においては記載不備を指摘されないように次の点に留意した対応が必要である。
(1)実施の形態において少なくとも一つの具体例を明確に記載しておく。
(2)発明特定事項の一部が周知技術に該当する場合でも、該当する周知技術を明確にしておく。
以 上
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